短気で気分屋なワタシのパートナーシップ論。

2022-07-23

あなたの本当の願いを教えてくれる涙のはたらき


こんにちは! 
心理カウンセラーの徳永麻由子です。 

4ヵ月ぶりのブログ更新で、書きたいこと山積みなのに、その想いばかり空回りして、結局何を書いたらいいか分からないのですが、そんなブログを読んでくださる皆さま女神さま、本当にありがとうございます!涙

本業の仕事が忙しすぎて、3月からカウンセラー活動ができずにおりました。Twitterではちょこちょこつぶやいていたので(本当にちょこちょこですが)、良ければこちらもフォローしていただけると嬉しいです♪

さてさて、突然ですが、
私、髪の毛をバッサリ切りました!


冬の間にお菓子ばかり食べてお顔がパンパンだけども気にしない!


切った髪の毛の長さは、なんと50cm!

5月中旬ごろに切ったので、今はもうここから髪の毛が伸びております。もう切りたくなる(ショートあるあるですね)



「ヘアドネーション」と言って、髪の毛を寄付できることを皆さんはご存じですか?





髪の毛を寄付できる団体はいくつかあって、私は18歳未満の子どもたち向けにウィッグを作っている団体(詳しくはこちら)へ寄付しました。

小児がんや先天性の疾患、治療の副作用などなど。何かしらの理由があって、ウィッグをつけざるを得ない人たちが、この社会にたくさんいるんですね。そんな子どもたちに、無償でウィッグを提供されている団体さんです。

今や、芸能人や一般の女性、なかには男性でもヘアドネーションをされる方々が増えてきましたよね。皆さんそれぞれ、どんな気持ちで髪の毛を伸ばして、寄付をされるんでしょう?


私が髪の毛を寄付しようと決断したのは、自分の不妊体質を受け入れたことがきっかけでした。






私にとって「女性である」ということ


皆さんは、ご自分の性を、どれだけ受け入れられてますか?

女性であること。
男性であること。
心と身体の性が一致しないこと。
性があやふやで分からないこと。

私はLGBTQと言われる性的マイノリティには属していませんでしたが、それでも「女性らしく」振舞うことにず~~っと抵抗がありました。

心理学でいうところの、自分の中の「女性らしさ」や「セクシャリティ」をずっと抑圧していた状態ですね。


皆さんの中にも、こんなエピソードと似たような経験をされたこと、ありませんでしたか?


小さいころから男の子と間違われる。
ほんわか花柄よりも、くっきり大柄が似合うと言われる。
履くのはスカートよりキュロット。思春期以降はズボン一択。
ヘアスタイルは常に肩より短い。
プリクラのお絵描きで名前を書くときにピンクだけは選ばない。
可愛いデザインものを選ぶときは色味をモノトーンに。
力持ち、頼もしいと言われる。
周囲から「素敵な彼女になりそう」とは言われず、決まって「良いお母さんになりそう」と評される。


親や親戚からの評価。学校の友達との比較。いじめやいたずらで傷ついた経験。失恋。性的被害にあったトラウマなど。

私たちはいろんな出来事を通して、自分は●●が似合わない。〇〇はふさわしくない。と自分なりの「彩り」を自覚していきます。


その自覚っていうのは実は、"他人軸からくる思い込み"ではあるのですが、人間だもの。
そう思っちゃうものは思っちゃうんですよね。


「そっか・・・私って可愛いピンク色が似合わないってことは、可愛らしい女の子ではないってことなのかな・・・(悲しいなあ😭)」

  ↓数年後

「あ、このピンクの自転車可愛いな。でもこれは可愛い女の子にふさわしいよね。私は他の色を選んだ方がいいんだろうなあ。」

  ↓数年後

「え?私にピンク?似合わない似合わない!やめてよもう~☆(ピンクなんてありえない!恥ずかしい!)」


これは実際に私が経験したケースでして。

やめてよもう~☆的な感覚は、私が30歳手前になるまで継続していました。


最初はとっても悲しかったはずなんです。

それも時間が経つと、当たり前のことのように感じてきます。


「私にピンクなんてありえない!恥ずかしい!」という状態が、自分のスタンダードになっちゃうんです。


当時の私は「女の子らしいことが似合わない私に、例え軽いノリでも、女の子らしいものを提案してこないで!」と心の底から思っていました。

自分がピンク色のものを身に着けていると想像しただけで、切腹したくなるぐらい、恥ずかしかったのを覚えています。


私は女性ではあるけれども、女の子らしくない。
私は女性として生きてはいるけれども、可愛らしくない。
そんなの似合わないし、そんなの恥ずかしい。
それでいい。私は全然それでいい。


女性であるということ、私にとってはこれで十分だったんです。



生理がこなくなった


そんな私、20歳ぐらいから生理が止まりました。

もともと生理不順で、年に数回しか無かったんです。
最後あたりは夏に1回だけくるという、まるで風物詩。

気が付いたらまったく無くなっていました。


当時の私にとっては、あの面倒くさい生理がこないということは、それはそれはメリットは大きいもので。

ナプキンは買わなくていいし、下着や布団が汚れることもなく毎日安眠できるし、肌がかぶれることもない。ああ天国!ぐらいに感じてました(今でもそう感じる)


ただ、大学生当時の仲の良かった友人がそんな私を見て、心配してきたんですね。

「一緒に産婦人科に行こう」

そう彼女に連れられて、嫌々、病院へ行ったのを覚えています。


結果は簡単に言うと、病気ではなく体質。
排卵しにくく、生理がこない状態。
現時点で妊娠を望んでいないのであれば、低用量ピルを飲むだけでいいとのことでした。

(こういう体質の人は少なくないよ!)


そこから私は20代の間は産婦人科病院に通ったり、通わなかったりを続けました。

だって彼氏ができたこともないし、できる気配も無いし!
結婚願望も無いし、特に子ども生みたい願望も無い!
命に関わる疾患でもないので、緊張感も生まれない!

そんな私が真面目に治療するわけもなく、大して気にもせず。


「だって、私から女性らしさが一つ無くなったとしても、今さらだよ。全然平気!むしろメリット多い!」

そんな感じでした。


涙が教えてくれる私の願い


私が30歳手前になる頃です。
いろいろな経験を通して、自分の身体や健康に意識を持ち始めたかな?という時期だったんです。

そんな時、ずっとさぼっていた産婦人科へ久々に行こうと思い立ちました。


久々の産婦人科病院の待合室。

それまでの私はあまり気がつきませんでしたが、待合室を改めて見ると、当然のことながら妊婦さんが多いんです。

ある人は、付き添いの子どもに絵本の読み聞かせをしていました。
ある人は、ご主人と思わしきパートナーと一緒にくっついてベンチに座っていました。
ある人は、大きくなったお腹を優しくなでなでしていました。


みんな、お腹の中の赤ちゃんがちゃんと成長していますように、ちゃんと健康に生まれてきますようにと願っているような雰囲気でした。

しかもそれがママだけじゃない。パパも楽しみにしている。
お姉ちゃんやお兄ちゃんになるであろう子どもたちもわくわくしている。

みんな幸せそうに見えました。


その途端、私は涙が止まらなくなったんですね。


生命の誕生を迎えるために来た人たちと、生理を止めるために来た私。
生命が授かったか検査に来た人たちと、授からないように来た私。

待合室の周りの人たちと私。
この対称的な立場をはっきりと感じました。

彼女たちと私はまるっきり真逆のことをしている。
そう思うと、考えるよりも先に涙が溢れてきちゃったんですね。

私はびっくりしました。


「ああそっか、私は悲しいんだ。」


私は子どもを持てないかもしれない、と思うことが悲しかったんです。
もし授かったとしても一緒に誕生を待ち望んでくれるパートナーが今の私にはいない、ということが強烈に悲しかったんです。


初めて産婦人科で検査をした時から約10年。

私は自分の願いにやっと気がつきました。



今できることは何だろう?


その頃から徐々に、私の考えに変化が現れました。

「彼氏別にいなくても大丈夫」→「彼氏ほしいかも」

「結婚願望ない」→「結婚したいなと思える人に出会いたいな」

「子ども持ちたい願望ない」→「まだ願望ないけど、でも持てないと思うと悲しい」

「生理こなくていい」→「大きな病気に発展しないようちゃんと通院しよう」


あの涙の嗚咽感を思い知らされたので、何かすぐにでも行動したくなったんですね。

自分の願いを少しでも叶えたくなったんです。


ここで私は考えました。
結婚と子どもを持つことに関しては、私だけの問題ではありません。
お相手ありきなので、今すぐに私が取り組めることって何だろう?と頭をひねりました。

以下ぶつぶつと頭の中
(もし将来、結婚できたとしても、子どもが授かるかどうかは分からないし。不妊体質があれば、治療も必要だろうし。それってお相手の人も可能性がない訳じゃないし。現実的に年齢やお金の問題もあるだろうし。授からないまま、でもどうしても子どもを持ちたくなったら、養子縁組とかも良いんじゃないだろうか。てことは、家族じゃない子どもを愛することと同じなのかな。だからと言って地域の子どもたちと触れ合うのは気が進まないし(すまん)、仕事やボランティアで携わるほどの情熱はまだ無いしなあ。…今この世を生きていて、困っている子どもたちは?そんな子どもたちに何かできることって無いのかなあぶつぶつ以下略)


ぐるぐるといろんなことを考えていると、自分の中の悲しみがどっか行っちゃいました。


私は子どもを持てないかもしれない、持てても赤ちゃんの誕生を一緒に待ち望んでくれるパートナーがいない、と思うとずっと涙が止まらなかったのに、自分の願いを辿っていって、それがどういう形で実現できるか?と考え始めた途端、悲しくなくなったんですね。



自分の本当の願いを知ることの大切さ


こういうことって皆さんにも経験ありませんか?
心理学では「今に意識を向ける」とか「自分とつながる」という言葉で表現される状態です。

自分の中の悲しみを認める=自分の本当の願いを知る=自分とつながる


普段は感じないようにしていた感情を無視しないこと。
そしてその感情を常識や思考を使って否定せずに、感じてあげること。
その感情が生まれた原因(自分の本当の思い)をただただ受け入れること。

そうやって自分の心の奥底に意識を向けます。

そうすると自然と、今度は思考が働き始めます。

どうすればできる?
どんな環境がふさわしい?
誰にどんなことができる?
誰かの協力がいる?
いつしよう?
それまで何をしよう?

私は、自分の世界の中だけにあった悲しさが、誰かのためにしたいという願いに変わりました。


自分だけじゃない。
誰かのために。


その考えの末、私はヘアドネーションを選びました。


自分には彼氏ができないかもしれない。
結婚ができないかもしれない。
子どもが授からないかもしれない。
子どもを持つことさえ叶わないかもしれない。
女性として母親を全うできないかもしれない。


でも子どもを愛したい。


この今を生きようと頑張っている子どもたちに。
少しでも治療を頑張ろうと思えるように。
未来に生きたいと希望が持てるように。

ほんの少しでもそのエールを届けるために、私の髪の毛を使ってね。



それから私が髪の毛を伸ばしている間、私の人生は大きく変わりました。

やっと彼氏ができ、結婚したいと思える男性に出会えて結婚し、そして今年やっと「子どもを持ちたい」とはっきりと願えるようになりました。


髪の毛を切った今、首もとに気持ちのいい風があたります。

そしてまたヘアドネーションをすべく、髪の毛を伸ばし始めました。
これが今の私ができる範囲の、子どもとの接し方、愛し方です。


「そんな程度」と思わなくていい。

自分なりで大丈夫なんです。


皆さんは、普段感じないようにしている感情はありますか?

お母さんを助けてあげたかったけど、傷つけてしまった。
元カレのことをいい加減諦めなきゃいけないのに、忘れられない。
私のあの選択は正しかったんだろうかと、今でも悩むことがある。

その感情の中に、あなたの未来の人生の喜びが隠れているかもしれません。
放っておいてもいいし、向き合ってみてもいい。


どんな選択でも、私はあなたを応援していますよ。



徳永麻由子(プロフィールtwitter Instagram

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